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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【御三階】 会津若松市の七日町通り、JR七日町駅のすぐ近くに、浄土宗正覚山阿弥陀寺というお寺があります。戊辰戦争の後、本丸御殿の庭に建てられていたこの建物が、阿弥陀寺に払い下げられました。戊辰戦争で阿弥陀寺の本堂が焼失していたからです。そして阿弥陀寺では本堂としてこの建物を使っていましたが、最近になって新しい本堂が建立され、現在はこうして歴史の遺物として残されています。 玄関の屋根の部分は、本丸御殿の脇玄関の屋根を移築したものです。「脇玄関」というのは、殿様よりも低い身分の武士で、本丸御殿に入ることが出来る武士が使った玄関です。そして、この「御三階」という名称も、不思議なことに、『会津鑑』にも『新編会津風土記』にも出てきません。おそらく、戊辰戦争の後で、御三階と命名されたのであろうと思われます。そもそも「御三階」は三層の天主閣に使われる言葉です。因みに、白河市の小峰城の天守閣は「御三階櫓」と呼ばれていると、白河で生まれ育った方にお伺いしました。 この「御三階」が建てられていた場所は、明治初期に出版された本丸御殿内の建物の配置図からすると、殿様の居住域の東側の庭に建てられていました。つまり、歴代の会津藩主は、会津にいる時には毎日目にしていた建物であるということになります。ですから、『新編会津風土記』に「御三階」が記されていないということが非常に気になります。『新編会津風土記』の編纂者は北原釆女という人物ですが、この北原家は保科正光が高遠藩主であった時代から保科家の家老職にあった家です。ですから、この「御三階」の存在を知らなかったはずがないだけではなく、この三層の建物がどのような建物であるか判っていた可能性が非常に高いと考えられます。 保科正之公は将軍家光がなくなった時から、家綱の後見役として参勤交代を免除され、江戸にいらっしゃったのですが、保科正之公が会津藩主になられたのは寛永二十年(1643)ですから、将軍家光が亡くなるまでは、参勤交代をしていました。高遠藩主の時に、江戸から高遠へお帰りになられた記録が、『会津藩家世実紀』のとある記録の中に記されています。そして、家光が亡くなったのは慶安四年(1651)のことです。ですから、保科正之公は当然この「御三階」をご存じであったということになります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.22 10:56:38
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