|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「子安観音」石仏】 この「子安観音」石仏に出会ったのは、会津のキリシタンを研究するために、会津を巡りはじめた頃でした。綺麗な小石が上げられていますから、この「子安観音」石仏をお参りされる方が少なくないのであろうと思われます。 こうした子供を抱いた「観音菩薩」を「子安観音」と呼ぶようになったのはいつ頃のことなのでしょうか。そして、「子安観音」という観音菩薩は『儀軌』にないのですから、仏僧が「子安観音」と命名したわけでもないと思われます。 つまり、一般民衆の中にあったこうした石仏なり石像を「子安観音」と一般民衆が呼ぶようになったのであろうと思われます。しかし、こうした「子安観音」や、乳房のある「観音菩薩」像などが何故、会津似た数残っているのか、フィールドワークを繰り返す中で大きな疑問になっていた頃がありましたが、『会津藩家世実紀』にある記録を年表のように並べることによって、会津藩の対キリシタン政策がはっきりしてきました。 「吉利支丹宗門之者、寛永二十年会津入封之節ハ、御領中ニ壱人モ無之、御蔵入之分ハ諸代官加勢申付、本尊ヲ為踏、家捜イタシ厳致穿鑿、同年十二月吉利支丹宗旨之義、七人組之内ニ而能々致穿鑿、毎年正月之内日限ヲ定寄合、寺檀那共ニ無相異之次第、郷中ニ有之行人乞食迄、不審成者入念可相改旨被仰出、正保元年十二月、来正月モ例之通可相改哉之旨及言上候得バ、只改候而者其徒不相顕」という寛文五年五月八日の記録は、文体からすると、幕府に提出した報告書の写しであろうと考えられます。「毎年正月之内日限ヲ定寄合、寺檀那共ニ無相異之次第、郷中ニ有之行人乞食迄、不審成者入念可相改旨被仰出」とありますが、旧正月中にキリシタン穿鑿を行うことは、不可能に近いです。会津藩領内はまだ雪に埋まっている時期ですし、会津盆地でも吹雪になったら、隣の村どころか、隣の家へ行くのも大変ですが、遭難事故に関する記述を『会津藩家世実紀』に見付けることが出来ません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.25 10:40:54
コメント(0) | コメントを書く |