|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【「子安観音」石塔と木地師の村】 これは、とある山の中にある村で出会った、「子安観音」が彫られた石塔です。うえの2枚は2004年11月26日に、下の写真は2005年10月16日に撮っています。側面に「宝暦十二年」と彫られていますが、1762年です。会津では、この頃まではかなり公然とキリシタンが活動していたと小生は考えています。それを示すモノが残っているからなのですが、この「子安観音」石塔は、以前からここにあったものではありません。ある方が、別のところから移動してきています。ご本人から、直接それをお伺いしましたが、そのお話を総合して考えると、かつては『新編会津風土記』に記されていない木地師の村があったところであろうと考えられます。 この木地師の村跡に関しては、詳しい調査報告書が出ていますので、そこにあった墓地に残っていた墓石に、どのような文字列が彫られていたかも記されています。それをじっくり読んで、小生もそれらの木地師の村跡を訪ねたことがありました。そして、そこの彫られている文字列から、キリシタンがいたことがはっきりとしました。しかし、戒名が彫られているということは、宗門人別制度に組み込まれていたということですから、そうした村が何故、『新編会津風土記』に載っていないのか不思議でなりませんでした。 墓石に彫られている年号は、『新編会津風土記』の編纂が完了するよりも前の年号が多いです。「元禄」「享保」という元号が彫られていることは、小生も実物を見て確認しています。そして、『新編会津風土記』のほかのところには、木地師の村跡に関して記されていますし、移住したケースで移住先が記されているところもあります。にもかかわらず、この一帯にあった木地師の村に関して、何故『新編会津風土記』が沈黙しているのか、それが大きな疑問であり続けました。 文書に残っていなくても、はっきりとした伝承が残っていることもあります。日本の歴史学では、多くの場合、伝承の資料価値をかなり低く見てきました。しかし、墓石に彫られた文字列から、史料が隠した理由が見えてくることもあります。あるいは、会津以外の史料から、会津が見えてくることもああります。そして、歴史研究者の細かい研究の成果が、会津に残っている実に不思議なことを解明してくれることもあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.26 07:37:02
コメント(0) | コメントを書く |