|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「切支丹墓碑」】 この「切支丹墓碑」に最初に出会ったのは、1998年でした。珍しい形をしているので写真を撮ってきましたが、その時にはまだ、これが「切支丹墓碑」と呼ばれていることはまったく知りませんでした。そして、どちらも上部に逆さ卍が彫られています。ですから、如宝寺の「切支丹墓碑」を見た時に、この「切支丹墓碑」を思い出しました。 そして、一昨日また、別の「切支丹墓碑」に出会って、この写真に写っている2基の「切支丹墓碑」を理解することが出来ました。上の写真の「切支丹墓碑」には年号が見えませんが、下の写真の「切支丹墓碑」には「寛文十一辛亥年」と彫られています。保科正之公がお亡くなりになられた前年で、1671年です。 蒲生氏郷が会津の領主になった時、葦名家に仕えていた武装農耕集団の中で、蒲生家に仕えた集団と蒲生家には仕えなかった集団がいました。最近になって、そのことに関する記録や伝承から書かれた本が出版されたのですが、非常に興味深い本です。そして、蒲生家に仕えた集団がキリシタンになっている可能性は非常に高いと考えられるモノが残っていますが、蒲生家に仕えなかった武装農耕集団の村々にも、はっきりとしたキリシタンの痕跡が残っています。まだ、宗門人別制度は影も形もない時代ですから、「お寺を離れてキリシタンになった」訳でもありません。 「3000人の農民が武士に取り立てられて、保科正之公と共に山形最上へ移住した」と伊那谷で伝えられていますが、高遠から山形最上経由で経由で会津に入って来た家々の中で、会津で帰農している家々がこうした蒲生時代のキリシタンのその地域で共生しているケースも確認することが出来ます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.28 09:34:00
コメント(0) | コメントを書く |