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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「已待供養」塔】 前述した「已待供養」と彫られた石塔です。神社に上がっていく階段の登り口に建てられていました。勿論、意味は「己侍供養」であろうと思われます。「そこら中にありますが‥‥‥」と言われそうですが、会津では蒲生の家臣団と加藤の家臣団と保科正之公と共に山形最上経由で会津に入って来た家々とが帰農していますから、こうした石塔がそこら中に残っていても不思議ではありません。 また、明治になって士族とされた家々の先祖だけが武士であったわけではありません。農家に戦闘用の刀剣が残っているケースもあります。ただ、中には、戦争中に米と交換したケースもあるだろうと思います。事実、そうしたケースがあって、最近になって、それを元の持ち主に、現在の米の値段を考えてお譲りしたことが新聞に書かれていたのを読んだことがあります。かなり安い値段だったようです。 「山の中でしょ?何で武士なのですか?」と尋ねられたことおあります。帰農した時に、年貢という収奪の対象になるものを作ることを嫌って、山の中に帰農したケースがあると書かれているものも読んだことがあります。そして、この村のように、保科正之公が会津藩主になられた時に、伊那高遠から山形最上経由で会津に移住された家々が帰農していると考えられる村は少なくありません。 そうした村々の中には、明らかに蒲生家の家臣だったと考えられる家々がある村もあります。つまり、蒲生時代のキリシタンと高遠のキリシタンが共生している村なのですが、そうした村にも「巳待」と彫られた石碑が建てられています。そして、表面には出てきていませんが、そうした村にも「『巳待』は『己侍』」という伝承が潜っているようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.28 12:00:52
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