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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の不思議な双体仏】 2003年6月23日、それ以前から気になっていた村の墓地を訪ねてみました。この双体仏はその墓地で見付けた不思議な双体仏です。おそらく、舟形光背の部分が切削されているのであろうと思われます。もしかすると、切削された部分に彫られている文字列を消したかったのかもしれません。小生が「表面破壊墓石」と呼んでいる墓石と同じ理由だったのかもしれません。 「被差別民はお寺に入れてもらえなかったから、仕方なくキリシタンになった」と聞かされれば、転切支丹類族の戒名が彫られていたら消したくなるのも当然であろうかと思います。しかし、この村にも、高遠から山形最上経由で会津に入って来たと考えられる家々があります。ですから、この村のあるところにも、「己待供養塔」と彫られた石塔が建てられています。その中には、史料からすると、その家がどういう家であったかを推察出来る家があることも間違いないと小生は考えています。 そして、会津にはかなりの数の転切支丹類族墓石があることは、それらをここでご紹介し続けてきたことからもお判り頂けるであろうと思います。そして、会津のキリシタンがキリシタンになったのは、宗門人別制度が施行されるよりもずっと以前のことです。その頃には、お寺は葬儀も法事も行っていません。これは、会津だけでなく、伊那高遠でも同じです。 ですから、『会津藩家世実紀』にある記録でキリシタンに関わるものを抽出して、それを時系列で並べると、保科松平会津藩がキリシタンをまったく弾圧していないだけでなく、取り締まってもいないことは明らかです。こう記すと、「キリシタン禁制の高札が建てられていた」とおっしゃる方々も多いかと思いますが、しかし、そうした高札が建てられていた村にもかなり遅くまでキリシタンが隠れていたところもあります。それも、お寺のご住職はそのことをご存じであったのであろうと思わされるモノが残っている墓地に、二度、出会ったことがあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.28 14:35:11
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