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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「己待塔」碑】 これは会津のとある村の稲荷神社の参道脇に建てられています。この神社を最初に訪ねたのは1998年でしたが、その時にはこの石碑は気になりませんでした。その後、2000年にも再訪しているのですが、その時にも気になりませんでした。そして、2004年にここを訪ねた時に、「巳待」ではなく「己侍」に近いので、気になりはじめました。 この写真は、去年の7月25日に撮った写真です。側面には「寛政四子年」と彫られています。1792年です。この2年前に、幕府から5回目の寺院本末帳の提出命令が、本山格の寺院に出されています。この寺院本末帳の提出命令は、江戸時代に6回、幕府から出されていますが、宗門人別制度を考える時に非常に気になることの一つです。江戸時代の後期になって、天明六年(1786)、寛政二年(1790)、天保五年(1834)に出されていますが、幕府は何を知りたかったのでしょうか。「寺院本末帳」ですから、キリシタンと関係があるとは思えません。 ですから、こうしたことを考えていくと、宗門人別制度はキリシタンの取り締まりのためではなく、その目的は仏教の解体と再編だったように思えてならなくなります。そもそも、檀家からキリシタンが見つかった時には、そのお寺の僧侶の最高刑が梟首ということであれば、キリシタンを見つけだすことは至難の業です。逆に、キリシタンを見付けたら、僧衣の色を2階級特進にしたら、かなり見つけられただろうと思います。 会津の史料からすると、会津ではキリシタンを密告して報奨金を得たという記録はありません。それだけではありません。小生は時々、「公然と隠れていた」と表現しますが、そういえるだけのモノが残っていた村があります。小生は、もう30年以上前に、それを見たことがありました。あの村にも、蒲生氏郷の家臣が帰農していることは間違いありません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.28 15:58:52
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