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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「子安地蔵」石仏】 これは2008年11月13日に、あのとある村の墓地で撮った写真です。正面の道を上がっていくと、この石仏が祀られていました。頭部が剃髪されています。かなり風化していますが、子供を抱いているのがはっきり判ります。この辺り一帯には、こうした子供を抱いた像が多数残っています。そして、キリシタンに関する伝承もかなり残っています。 ですから、この「子安地蔵」石仏に出会ってもあまり驚きませんでした。多くの村々が会津にありますが、一つの村だけにキリシタンの痕跡が残っているというケースはありません。蒲生時代にも加藤時代にも宗門人別制度は影も形もありません。宗門人別制度の施行命令が出されたのは、保科正之公が会津藩主になられる直前のことです。 ですから、会津だけでなく蒲生領だったところにキリシタンの痕跡が残っていても不思議ではありませんし、戊辰戦争まで会津藩領だった新潟県東蒲原郡阿賀町一帯にも、キリシタンの痕跡が残っています。それも、ある地域では、転切支丹類族の墓石と考えられる墓石が多数残っています。それらはここでもご紹介してきましたが、転切支丹類族の墓石だけでなく、その地域には角九曜紋や丸九曜紋を家紋にしている家々があります。 そして、保科正之公が亡くなられてから、保科民部正興が謫居させられたのも、東蒲原郡阿賀町のとある村でした。あの保科民部正興が謫居させられた理由は、本当に藩内の対立だったのでしょうか。あの周辺の村々の方は今でも、「民部さま」とおっしゃいます。そして、あの墓石には戒名が彫られていません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.29 11:54:46
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