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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【保科民部正興】 写真は、保科民部正興の墓の近くに建てられている案内板です。横長なので、二つに切り分けて上下に並べました。細かい系図をお知りになりたい方は、ウィキペディアに保科氏の細かい系図があります。 保科正近までは、保科会津藩の家司でした。そしてこの系図からお判り頂けると思いますが、保科民部正興は保科正之公の養父・保科正光の甥にあたる保科正長の子です。そして、保科正近が慶安二年(1649)に亡くなったあと、家司になったのは北原釆女光次家老でした。 貞享三年(1686)に保科民部正興は、水沢に謫居させられているのですが、『会津藩家世実紀』の記録を何回か読んだのですが、本当に藩内の政争が原因だったのかという疑問を消すことが出来ず、2012年4月に水沢とその一帯をかなり丹念に巡ってきました。あの一帯は凄いです。高遠から山形最上経由で会津に入ってきた家々で構成されていると考えられる村々があります。そして、伊那高遠のある村に建てられていた、とある石碑を見て、不思議な習慣が小野一帯のとある村に残っていることを理解することが出来ました。 そして、この一帯も会津藩領でしたが、キリシタンの痕跡が多数残っていました。水沢へお出掛けになる方は、徳沢の西から阿賀川沿いに下る路ではなく、少し遠くなりますが津川から回り込んだ方がいいと思います。徳沢の西から入る道は、大型車通行止めになっていましたが、小生の来るまで通るのも怖いほど、2011年の洪水で崩れているところがありました。あの部分は、簡単には復旧できないだろうと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.29 16:44:13
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