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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【保科民部正興】 前述までの、保科民部正興が謫居させられた村に、「十二山神社」という神社がありました。この神社を訪ねたら、氏子総代の方がいらっしゃって、中にはいることと写真を撮ることを許可して下さいました。その時に「この神社には御神体がない」とおっしゃられたのですが、下の写真は拝殿の正面を撮った写真です。正面に弊と鏡が置かれています。 それで気になって、お社から出て、その氏子総代の方とお話をしたのですが、「御神体」とおっしゃったのは、何かの「像」という意味でした。ということは、この一帯にある神社には、「御神体」と呼ばれている何かの「像」が祀られているのかもしれません。しかし、神道の御神体は基本的に像ではありません。三種の神器と呼ばれる、鏡と剣と曲玉です。そして、多くの神社では鏡だけが見えるところに置かれています。それで、あの一帯の神社を訪ねてみたのですが、中が見える神社はほとんどありませんでした。 「社(やしろ)」は神霊が来臨する屋の代わりを意味する言葉で、「屋代」とも書かれます。ですから、三種の神器も神ではありません。勿論、像を祀らないだけでなく、神々の絵を祀ることもありません。そして何よりも、神道の特徴は教理がないということです。言い換えると、祭祀の仕方が神道であると言うことが出来るであろうと小生は考えています。ですから、宗教史という視点から見ると、神道がどこから日本に入って来たのかが気になって仕方がありませんが、まだ定説はないようです。 この「十二山神社」という神社名も気になります。『新編会津風土記』には「山神社」という記載がありますが、「十二山神社」という名前の神社は見当たりません。ですから、会津藩が何故、保科民部正興をこの村に謫居させたのか、非常に大きな疑問が残ります。そして、こうした疑問からも、保科家が保科郷を離れたのは、保科正俊が当主だった時代ではないかと考えさせられることに繋がります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.29 19:56:31
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