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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【早春の磐梯山】 去年の4月15日に撮った写真です。最近は、暖かくなりはじめると元気が出るようになってしまいました。学生時代には、一冬に実質50日以上、スキーを履いていたのですが、今はそれがウソのようです。会津のキリシタンに関する論文を書き始めて、スキーを絶ちました。それ以来、一度もスキーを履いていません。 それでも、ここまで会津のキリシタンが見えてきたので、満足感に溢れています。伊那高遠と会津、それは単に保科正之公だけのことではなく、旧高遠藩領内から山形最上経由で会津に入って来た家々との繋がりのあるものでした。神社やお堂、あるいは祠の屋根にある不思議な千木が、民家にもあることがはっきりとそれを示しています。 会津では、屋根の一番高いところにラテン十字が取り付けられていた村がありました。写真はありませんが、小生は30年以上前にみた光景をはっきりと覚えています。そして、あるところに建てられていた建物の中も憶えています。そして、蒲生のキリシタンと保科のキリシタンが会津で共生しています。 蒲生のキリシタンが幕末まで、否!、明治初期まで続いていたのは間違いありません。その証拠が会津に残っています。ある墓石を見た時、それを痛感させられました。この墓石の写真はここでもご紹介したことはありません。おそらく、最後まで公開しないだろうと思います。しかし、間違いなく蒲生のキリシタンの残り香であると小生は考えています。そのことに関してお話下さったご婦人は、既に天国に召されてしまったと聞きました。本当に残念なことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.30 17:08:35
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