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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の移設された無縁墓地】 会津の山間の未舗装道路を走っていたら、最近になって移設された墓地がありました。最近になって移設された理由が彫られている石碑も建てられていたのですが、そこに彫られていることを記すと、ここがどこか判ってしまいますので、「無縁墓地を移設した」とだけ記します。そして、上の写真の「廿三夜供養」石碑も同じところに建てられていました。 この「二十三夜」の月待ちの習慣が、高遠から入って来たしゅうかんなのか、あるいはまったく別のところから入って来た習慣なのかは、それを解決出来るだけの調査をしていませんので、何とも言いようがありませんが、高遠にも二十三夜だけでなく二十二夜の月待ちの習慣があったことは間違いなさそうです。 3000人の農民が武士に取り立てられて、山形最上経由で会津に入って来ているのですが、この3000人という数字は、極めて大きな数字です。15人ずつで村を形成したとすると、200ヶ村が出来たことになります。しかし、それだけの数の村が、保科正之公が会津に入られてから成立したとは、『新編会津風土記』の記述からすると考えられません。 また、一旦開村された村が、不便なので移動しいているケースもあります。この時の理由は水だったのであろうと思われます。しかし、堰を造ることによって開村された村々がある一帯もあります。その一帯の村々では、皆さんがそのことをよくご存じです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.31 10:23:15
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