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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【石碑・石塔群】 先日、会津ではないところへ出掛けた時に、とある村の入口に大きな杉の木があって、その周りに石碑や石塔が建てられていました。この大杉は行基が植えたものだという伝承が残っているようですが、大きな杉ですが、周囲に競合するような大きな樹木がないので、それほど古い杉の木とは思えませんし、行基が畿内地方を出たと言っても、畿内地方の周辺部を巡っただけで、東北まで来たとは考えられていません。 行基伝承や空海伝承、あるいは最澄や徳一に関する伝承が『新編会津風土記』に載っていますが、伝承が残っていたのは事実でしょうかが、行基・空海・最澄・徳一が東北まで来たかどうか。少なくともそれを確定できる史料は残っていません。『新編会津風土記』に記載されている寺社に関することは、寛文四年(1664)に保科正之公の命によって行われた寺社改めの時に、寺社から提出された文書がそのまま載せられたものです。このことは、何回もここに書いてきましたが、『新編会津風土記』自身の「凡例」にはっきりと書かれています。そして、それを参考にして現地調査が行われたことを示す記録はありません。 非常に興味深いのですが、保科正之公が寺社改めをされた2年後に、水戸光圀は領内の寺社整理を行っています。そして、寺請けではなく、神道請にさせたところもあります。こうしたことが最も過激に行われたのは、備前岡山であったとされています。お寺がすべて破却され、すべて神道請にさせられました。このことを耳にして、保科正之公は、「それもいいが、お寺の本山とトラブルになると面倒だから、徐々に僧侶の数を減らせばよい」とおっしゃったと、『会津藩家世実紀』のそれが書かれている部分の註に記されています。 時々、「保科正之公は仏教嫌いだった」と耳にしますが、こうした記録から、そうしたことが言われているにかもしれません。この「湯殿山」「東堂山」「廿三夜」と彫られた石碑ですが、会津にも数多く残っています。そして、最近も湯殿山参りが行われているところがあるのですが、その村の方と少しお話ししたことがありました。小生のところに送られてきた写真を見る限りでは、湯殿山にもキリシタンの痕跡が残っているようです。そのうち、体調を整えて、湯殿山へフィールドワークに出掛けたいと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.04.01 07:48:20
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