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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【石碑・石塔群】 前述の場所にあった「念仏供養」塔と「庚申塔」塔です。江戸時代の中期以降に「かくれ念仏」「かくれ題目」が広まっていたことは、片岡弥吉・圭室文雄・小栗純子『近世の地下信仰 日本人の行動と思想20』(評論社、昭和49年、東京)にかなり詳しく論じられています。それを裏付けるかのように、「南無阿弥陀仏」あるいは「南無妙法蓮華経」と彫られた石碑や石塔に数多く出会ってきました。また、「念仏供養」と彫られている石碑や石塔にも出会ってきました。 そして、会津にも念仏講が残っていたり、残っているいることは、会津のそれぞれの市町村が発行している当該『市町村史』からも明らかです。そして、この本には、本願寺教団の勢力がかなり広まっていたことが書かれ、その中から「かくれ念仏」に移っていった集団が多かったことも記されています。しかし、会津とその周辺の一帯では、念仏の中にキリシタンが隠れていた可能性があることを、いくつかのことから考えさせられて来ました。勿論、「念仏」を隠れ蓑にしたということであって、キリシタンと念仏が混淆したわけではありません。 ただ、会津の場合、蒲生氏郷の時代以降、キリシタンが正に蔓延しましたから、念仏講が残っているところにもはっきりとしたキリシタンの痕跡が残っていることは事実です。なにしろ、曹洞宗のお寺の檀家の村に「念仏講」が残っていて、それに関する史料を市町村が保管していますから、非常に興味深いことです。これなどは、「同じ仏教だから」と言えない典型的な例です。ただ、宗門人別制度の形態から、こうしたことが理解されずに、曹洞宗の葬儀が終わった夜から念仏講が一定期間行われています。ただ、そうした曹洞宗のお寺の境内に観音堂が建てられているところもあります。 こうしたことを考えてくると、やはり、宗門人別制度はキリシタンの取り締まりが目的ではなく、仏教の解体と再編であったように思えてなりません。隠れ続けていたキリシタンは、それなりにキリシタンの信仰や習慣を保ち続けることが出来ました。ただ、宣教師がいなくなってから、時の流れの中で少しずつ変化してしまっていますが、しかし、「カクレキリシタン」といわれている方々も小生はクリスチャンだと考えています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.04.01 08:34:04
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