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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の不思議な神墳】 2004年8月24日、知り合いの学生さんとフィールドワークに出掛けました。その時にとある山の中の村の墓地で、写真のような墳墓を見付けました。上に建てられている石塔には「藤原義保之神墳」と彫られていました。しかし、『文禄三年蒲生家高目録』(1594)にはこの村の名前は記されていません。そして『寛文風土記』(1666)には村の名前が出てきています。 会津史に関する史料のデータベースを作っていて気になったのですが、この村だけでなく、この一帯の村々の名前が『文禄三年蒲生家高目録』に載っていません。実に不思議なことだったので、ずっと悩み続けていたのですが、伊那高遠へ通っているうちにその答えが見えてきました。 『寛文風土記』が編纂されたのは寛文6年(1666)ですが、保科正之公が会津藩主になられたのは、寛永二十年(1643)のことです。この間に23年の時が流れています。そして、この一帯に関して経験したことを思い出しました。 この墓地には小生の背丈と同じくらいの宝篋印塔が3基ばかりあります。そして、この一帯には会津特有の訛りがないのですが、小生が耳にしてきた限りでは、信州の言葉によく似ています。あるご婦人と電話でお話しした時、亡母の実家の伯母と話をしているように思えました。こうしたことを伊那高遠でも感じたことがありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.04.02 09:49:09
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