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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「卍」墓石と宝篋印塔】 前述の宝篋印塔や前々述の墳墓がある一帯の、別の村にあった墓石と宝篋印塔の塔身の部分です。それぞれ、別の村の墓地で撮りました。上の写真の墓石には「卍」が彫られていますが、墓石には戒名と逝去年月日だけを彫るのが原則で、こうした「卍」を彫るものもキリシタンの墓石であろうと思われます。 そして、この墓石に彫られている文字列なのですが、「當誉観・・・信士」と読めます。「誉」が付けられている戒名は浄土宗の戒名です。実はこの一帯は、かつては「太子守宗」でした。そして、「太子守宗」から真宗高田派や浄土宗に転宗しています。つまり、真宗高田派や浄土宗のお寺の檀家になったということなのですが、このケースでは、藩の指示によって転宗しています。しかし、会津には、「太子守宗」の希望によって曹洞宗に転宗しているケースがあります。本来は、こうしたことは特別なケースを除いて、許されていませんでした。しかも、これが行われたのは元禄四年(1691)のことです。この時に、「太子守宗」から曹洞宗に転宗したお寺は、4ヶ寺ありました。会津には少なくともこの時まで「太子守宗」が確実に残っていたと言うことになります。関心のある方は、『会津藩家世実紀』に詳しい記録が残っていますので、ご一読下さい。ただし、『会津藩家世実紀』では「太子守宗」が「太子寺宗」になっています。「守」と「寺」の崩し字は区別不能です。 下の写真は、この一帯のまた別の村の墓地で撮った写真です。かなり崩れてしまっていますが、この墓地にも宝篋印塔の部品が残っていました。しかし、こうした山の中の村々に、どこから宝篋印塔を墓石にする習慣が入って来たのでしょうか。小生は、高遠石工が伝えたように思えてなりません。そしてそれが、火輪の部分に宝篋印塔の笠の部分に名残がある五輪塔が会津に数多く残っているように思えてなりません。 16世紀末にはキリシタンの拠点だった高遠、その旧高遠藩領内から3000人の農民が武士に取り立てられて会津に入ってきていれば、こうしたものが会津一円に残っていても不思議ではありません。関心のある方は、入湯料とタオルを持って、この一帯へ是非お出掛け下さい。小生がまだであっていないものに出会えるだろうと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.04.02 11:53:52
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