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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「鬼子母神」像と「子安観音」像】 これは前述の「子安観音」石像がある一帯にある村々のお堂に祀られていた、「鬼子母神」像と「子安観音」像です。それぞれ、別々の村にあります。それほど離れた村ではありません。その距離を車で行こうとしたら、所長からクレームが付く程度しか離れていません。 会津では、保科松平家が藩主だった時にキリシタンを処刑していませんし、ここで何回も記しましましたが、旧正月中に厳しく切支丹穿鑿をしたと『会津藩家世実紀』に書かれていることが、実際に行われたかどうかには、大きな疑問が残ります。会津藩領内は会津盆地以外は雪が多いです。猛吹雪になれば、視界が1m程度になることもあります。かなり以前に、シビックという車に乗っていたとき、左前のフェンダーミラーの存在さえ判らなかったことがあります。 にもかかわらず、『会津藩家世実紀』にも『新編会津風土記』にも、遭難事故に関する記述がありません。会津の少し標高の高いところの雪はサラサラで、カンジキを履いてもかなり潜ります。そして、空は晴れていても、地吹雪で前が見えなくなります。江戸時代には、現在のような除雪道具はありませんし、除雪機械など考えもつかない時代です。 そして、吹雪の夜が明けた朝、入口の戸が開けられないこともあります。それでも、建物の中で暖房器具を使いますから、時として小生の背よりも長いツララが出来たこともありました。平屋の部分の屋根から落ちた雪が積もって、屋根に上がるのに梯子が要らなかったこともありました。会津の方であれば、旧正月中に若松城下から会津藩領内を穿鑿して廻ることは無理なことはすぐにお判り頂けるかと思います。幕閣の多くは、三河時代からの家臣です。今冬は豊橋で雪が積もったようですが、多分、またパニックになっていただろうと思います。彼らが会津の雪を想像することは無理だったであろうと思われます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.04.03 17:51:20
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