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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の小さな墓石】 前述した「子安観音」堂の麓にある墓地で撮った写真です。「萬延元庚申天」と彫られています。1860年です。また、左後ろに写っている墓石にも「天」年号が彫られています。 「被差別民はお寺に入れてもらえなかったから、仕方なくキリシタンになった」という誤解は、もしかするとこうした墓石から出てきたのかもしれません。しかし、会津のキリシタンがキリシタンになったのは、宗門人別制度が施行されるよりも以前のことです。その時にはまだ、お寺は死に関わるイニシエーションに関与していません。 また、蒲生氏郷に戒名が付けられていますが、宗門人別制度が施行されるようになってから、蒲生の家臣団の誰かがお寺に戒名を付けていただいたのであろうと思われます。戒名は、戒を受ける時に付けられる名前ですから、死者に戒名を付ける習慣は宗門人別制度が施行される以前にはその習慣もありませんでした。以前に、ネット上で、「蒲生氏郷には戒名が付けられているから、棄教したのであろう」という内容のことが書かれているのを読んだことがありますが、蒲生氏郷が亡くなったのは、文禄四年(1594)のことで、この時には宗門人別制度は影も形もありません。 そして、蒲生氏郷の墓に五輪塔が建てられていますが、五輪塔の基本形が保たれていますから、比較的長い時が流れてから建てられたものかもしれません。保科松平家に、蒲生家の重臣が仕えていました。『会津藩家世実紀』にある記述からもそれが明らかです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.04.04 08:53:29
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