|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のとある村で修験が継承してきた「子安観音」像】 これは、会津のとある村で修験が継承してきた「子安観音」像です。ここでもご紹介したことがありました。この修験を継承してきた家に関しては、『新編会津風土記』は沈黙していますが、この修験を継承してきたお宅には、「明和二酉年 正月七日 同五月十八日立 法主 敬白」と書かれたいたが残っています。 『新編会津風土記』編纂が完了したのは文化六年(1809)のことですが、明和二年は1765年です。つまり、『新編会津風土記』はこの修験に関して、何故か沈黙しているということになります。また、何回もここに記しましたが、修験道が禁止されたのは明治期のことであって、江戸時代には自由にその活動が行われていたことは、会津の様々なところにあった修験道に関して、『新編会津風土記』は記しているということです。 このお宅には、この「子安観音」像以外にも様々な像が保管されています。それらの像は、この修験のお宅が代々継承してきたお堂に祀られていたものであることは、この修験の家の方のお話や近隣の村の方からお伺いしたことから間違いないと思われます。そして、『会津藩家世実紀』に残っている記録からすると、保科松平会津藩は、修験道も庇護していたと考えられます。 そして、近隣の村々では、子宝に恵まれるように、あるいは無事に出産できるように、家々の女性はかつてはあったお堂へお参りに来ていたと、実際にお参りに来たことがある方からお伺いしました。そして、大事なことですが、この修験も密教系の修験であることは、「明和二酉年 正月七日 同五月十八日立 法主 敬白」と書かれている板からも間違いないと考えられます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.04.07 17:52:53
コメント(0) | コメントを書く |