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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「已待供養塔」と「持齊供養塔」】 前述の「庚申塚」にあった石塔と石碑です。この「持齊供養塔」の「持齊」の意味は、おそらく「巳待」と同じであろうかと思われます。「持」を「侍」と考えれば、意味は通じます。そしてこの村の『文禄三年蒲生家高目録』にある石高は、あの時代のことを考えるとかなり高いです。そして、『文禄三年蒲生家高目録』にある石高を、『新編会津風土記』にある家数で割ると、一軒当たりの石高が12石程度になります。そして、1594年から1809年までの間に、家数がそれほど増えたとは思えませんから、少なくとも『文禄三年蒲生家高目録』の時代にも、一軒当たりの石高は同じ程度あったであろうと考えられます。 明らかに江戸時代に分家していると考えられる家は、会津ではそれほど多くはありません。生まれてくる子供の数は多くても、分家することが出来る年齢まで育ったケースは、現在から考えると非常に少ないです。学生時代に、筑波大学の森岡清美教授の講演を聴いたことがありましたが、七歳くらいまでに亡くなってしまう子供が圧倒的に多かったとおっしゃっていました。会津には、数え年七歳の時に「ナナクサ」というお祝いをしますが、このナナクサの祝いまで生きられる子供が少なかったということであろうと思われます。 ですから、この大きな村でも、分家が増えるということはそれほど多くはなかったと考えられますが、ただ気になるのは、保科正之公以来の転切支丹移住開墾政策で、村の中の家々が移住しているかもしれないということです。ここは、江戸時代には天領だったところですが、しかし、『会津藩家世実紀』に記されていることからすると、天領南山御蔵入は会津藩領と同じ政策を行うという基本原則がありましたから、移住開墾政策によって『文禄三年蒲生家高目録』(1594)の頃の家数よりも、『新編会津風土記』(1809)の家数の方が少なくなっている可能性もあります。 そろそろ段ボールを縛って、ゴミの集積場所まで運んできます。軽いモノは既に所長が降ろしてくれました。最近、引っ越しの疲れがやっと消え始めました。ただ、読みたい本の入っている箱がまだ出てきません。今日こそ発見したいと思っています。そして、すぐには必要のない本は、箱に入れたままにしておこうと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.05.08 06:33:07
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