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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の「妙義山」碑】 前述の2基の間に建てられていた、「妙儀山」と彫られた石碑がありました。妙義山は、群馬県と長野県の間にある山で、修験の山です。国道20号線を走るよりは、長野道からの方がよく見えますが、大きな岩山の集合体です。東京方面からだと藤岡ジャンクションで長野道に入り、横川パーキングの手前辺りから、岩山が見えはじめますが、いかにも修験の山という容姿をした岩山が並んでいます。 ということは、この村にも修験がいたということなのかもしれません。江戸時代には修験は禁止されていません。ただ、密教のお寺は宗門人別制度上の檀那寺になることが出来ませんでした。修験道を禁止したのは明治「政府」です。それも、所謂「山岳信仰」を禁止したと言うよりは、密教を理解出来なかったからなのかもしれません。勿論、現在は修験道も憲法にある「信教の自由」が適用されています。 ただ、会津には「妙儀山」と彫られた石碑はそれほど多くありません。修験の山で多いのは、湯殿山が一番多いだろうと思います。そして、保科松平会津藩は、長男が修験を継いでいくことを認めていました。このことは、現在準備中の論文に少し詳しく記します。というのは、隠れていたキリシタンが修験道を隠れ蓑にしていた可能性があるからです。そして、数は少ないですが、こうした「妙義山」と彫られている石碑があることから、伊那谷の修験が保科正之公と共に山形最上経由で会津に入って来た可能性を示しているケースもあります。 机の上が少し整頓されたのと、『寛文風土記』が段ボール箱から出てきたので、もう一度史料のデータベースを丹念に校正したいと思っています。そして、修験道が残っている村々にあるモノを再検討してみたいと思っています。そして、それをすれば、会津の修験が旧高遠藩領内の修験の影響下にあることを確認できるかもしれません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.05.08 07:51:52
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