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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【信濃のとある庵の近くにて】 前述の十字墓がある墓地にあった墓石です。右側の戒名の先頭に「歸真」と彫られています。転切支丹類族に付けられた戒名です。そして、左側に女性の戒名が彫られています。本来、墓石は一石一戒名が原則でしたが、しかし農村ではその経費を捻出するのは大変であったであろうと思われます。特にこの辺りは高冷地ですから、1反1石など穫れることはなかったであろうと思われます。 収穫した米は、それまでに溜まった支払わなければならない金額に応じて、支払先に渡されたであろうと思われますし、何よりも年貢を納めなければなりませんでした。この年貢率ですが、どこぞの政党が聞いたら喜びそうな率です。当時は、一人の人が1年で一石(150kg)食べたとされていますが、それだけ食べられた農家は、江戸時代にはそれほど多くはありませんでした。 そして、米で払えない時は、それに応じたお金を支払わなければなりません。しかし、当時は現金収入のある仕事はほとんどありませんでした。薪を集めたり、炭を焼いたりしても、それほどの収入にはなりません。山の中の村では、熊などを仕留めて、熊胆(くまのい、胆汁を含んだままの胆嚢を干したもの)は相当高額で取り引きされていましたが、しかし、熊を大量に仕留めることが出来たわけでもありません。 もうしばらく前ですが、ある方の講演で「最近は武士はヤクザだということを言う方がいます」ということをお伺いしました。年貢は税金ではありません。一方的に金額を決められ、期限までに納めなければならないものです。確かに、その年貢で道路が整備されたりしましたが、そこで農民に支払われる日当はごくわずかでした。そして、宗門人別制度下では、法事だけでなく、お彼岸やお盆にはお寺にお布施をすることが義務付けられていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.05.14 16:15:07
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