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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【山岳信仰】 日本の歴史研究の中で、何故か宗教史だけが「蚊帳の外」に置かれているように思えることがあります。そして、宗門人別制度が檀家制度の出発点だということが忘れられてしまったり、明治政府が一方的に禁止した修験道が、今でも禁止されていると考えられることさえあります。そうした中で、キリスト教は他宗教に関して、「異教」という視点しか持ち得ていないように思えるのは小生だけでしょうか。 ですから、ヨーロッパ・アメリカ的なものだけを受け容れてきたように思えます。しかし、所詮、神学を日本語でしている限り、日本語そのものが持っている文化から逃げ出すことは出来ません。聖書を日本語に訳した時点で、すでにそのキリスト教は日本的にならざるを得ない宿命を持っています。これは、言語記号論がはっきりと示しています。 「主の山に備えあり」という旧約聖書の一節をご存じの方は多いと思いますが、旧約聖書の中にも、山岳信仰があることは「ノアの箱船」神話にも顕れていると小生は考えています。しかも、あの聖書に残っている「ノアの箱船」神話は、二つの資料が交互に出てくるように編集されています。ですから、「ノアの箱船」神話などは、もっともっと宗教史的な視点から研究が為されない限り、その真意を読み取ることは難しいかもしれません。 40年以上前に、戸隠連峰にある瑪瑙山の頂上で、自分のブロッケンを見た時、聖画や仏像にある光輪を理解できました。古い時代、自然と共生していた人々は、自然がそのまま現実であったのであろうと思われます。そして、平安仏教が入って来た時に、密教の部分がそれまでにあった山岳信仰と融合したのかもしれません。聖書の中にも、イスラエルあるいはパレスチナの、自然を考えなければ理解できない個所が沢山ありますし、聖書に出てくる植物を調べていくと、旧約聖書の時代にも、文化の多様性があり、ユダヤ社会の中に異文化が取り入れられていることは火を見るより明らかです。そうしたことを考えると、キリシタンが山岳信仰に隠れた可能性を理解できます。 ※写真に写っている白い山が甲斐駒ヶ岳です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.05.15 06:46:37
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