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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の宝篋印塔】 会津と言っても、現在は福島県に入っていないところがあります。新潟県になっていたり、栃木県になっていたりしますし、同じ福島県でも、郡山市に編入されているところがあります。この2枚の写真は、そうした地域の村で、以前から気になっていたところを去年の6月に訪ねた時に撮った写真です。古い宝篋印塔が残っていましたが、こうして並べられているからには、墓石として建てられたものであろうと思われます。 そして、この一帯の地籍を考えると、旧高遠藩領内にある珍しい地籍と同じ付け方が為されていますから、この辺りにも旧高遠藩領内から山形最上経由で会津に入って来た家々があるのであろうと思われます。そして、江戸時代中期の初め頃にこれだけの宝篋印塔を建てることが出来たのですから、それなりの資産がある家々だったのであろうと思われるのですが、この一帯にはほとんど田圃はありません。しかし、旧高遠藩領内から山形最上経由で会津に入って来た家々がどういう家々であったかを考えると、答えは自ずから見えてきます。 また、この一帯にある地籍を考えると、同じ地籍の付け方をしている村が会津の他の地域にもありますから、それぞれの村にそれなりの伝承が残っていたであろうと思われます。ただ、小生が知る範囲では、若い世代の方々の中には伝わっていないようです。 こうした宝篋印塔が室町時代末期から江戸時代初期に、キリシタンの墓石として建てられたことは、キリシタンだった戦国武将の墓石が宝篋印塔であることから解ります。つまり、保科正之公について山形最上経由で会津に入って来た家々の中に、キリシタンがいたということになりますが、『会津藩家世実紀』に残っている保科松平会津藩の対キリシタン政策を考えると、こうした人々を会津藩が庇護していることが見えてきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.05.19 06:21:24
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