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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の宝篋印塔】 これも現在は会津ではなくなっている村の道路脇にあった宝篋印塔です。教育委員会が建てた説明版には、「○○姫」の供養塔だとされていると書かれていました。そして、「○○姫の由来は一切不明であるが、これ丈の供養塔が建立されていることは由緒ある武士の一族であることが考えられる」とも説明版に記されていました。 確かにそうだろうと小生も考えていますが、この村は蒲生軍団の精鋭部隊によって成立した村であろうと小生は考えてきました。現在はこの村をパイパスする広い道がありますが、蒲生氏郷の時代に峠の要塞として成立した村であろうと考えられます。峠の付近まで敵が攻めてきてから、若松を出陣したのでは、簡単に峠を突破されてしまいます。ですから、峠の向こう側に精鋭部隊を配置していたであろうことは、十分に考えられます。 そして、17世紀になって、再蒲生の時代になっても、加藤家があ藩主になってからも、彼らの子孫はこの村で生き続けていたのであろうと考えられます。会津の峠には、こうした要塞としての村がいくつもあります。勿論、記録には残っていません。軍事機密を記録に残さないのは、軍事学の基本です。しかし、こうした宝篋印塔が残っていることが、蒲生軍団の村であったことを示しています。 しかも、古い形式を保った宝篋印塔で、蒲生軍団の村にあれば、キリシタンの墓と考えるのが、一番蓋然性が高いと考えられます。そして、興味深いことに、この村には「十王堂」があったと、『新編会津風土記』に記されていますが、もしかすると修験がこの村にもいたかもしれません。ここでもご紹介しましたが、不思議な建物が村の中に現存しています。因みに、秀吉が長久手の戦いで逃げ切れたのは、蒲生軍団が殿(しんがり)にいたからだと考えられます。蒲生軍団は連戦連勝の武装集団でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.05.19 15:10:08
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