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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の石灯籠型六地蔵】 この4枚の写真は、先月の22日に撮った写真です。上の石灯籠型六地蔵は墓地の入り口付近に建てられていて、そこに「己待供養」と彫られた石碑もありました。下の石灯籠形六地蔵は、かつては別のところにあったので、この時になってやっと再会出来ました。バイパス道路が出来た時にここへ移設されたのであろうと思われます。そして、その場所から少し家並みの間を入ったところに墓地があるのですが、そこに祀られている石仏です。舟形光背ではなく、光輪が彫られている会津では非常に珍しい石仏です。 これらのものに最初に出会ったのは1998年でした。その頃には、「『巳待』は『己侍』」という伝承が残っているとは思ってもみませんでした。しかし、『新編会津風土記』などの史料をデータベース化して、それぞれの村で撮った写真と並べて見ていたら、「何か変だ」と感じていました。 おそらく、会津のそれぞれの村々には、その村の成立時期や要因に関する伝承が残っているであろうと思われますし、転切支丹移住開墾政策で成立した村にもそれに関する伝承が残っているだろうと思います。中には、そうした村の中で、「一軒だけキリシタンの家があったが、いつの間にかどこかに引っ越した」という伝承が残っている村があって、小生がその村を訪ねた時には、既に全村が移住してしまっていました。それでも、残されているモノから色々なことが見えてきましたし、村の名前自体がキリシタンを示しています。これは伊那谷を巡っていて気が付かされました。 そして、旧高遠藩領内から3000人の農民が武士に取り立てられて、山形最上経由で会津に入って来ていることを確認してからは、会津に残っている多くの不思議なモノを理解することが出来るようになりました。そして、会津のキリシタンを研究しはじめて、しばらくして『会津藩家世実紀』にある不思議な記録に気が付きましたが、その不思議な記録が会津のキリシタン史を明らかにしてくれました。保科肥後守正之公以来、会津藩はキリシタンをまったく弾圧していません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.05.20 07:28:48
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