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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【山形最上にある武田大夫信清の墓】 前述した武田大夫信清の墓です。「天正一〇(1582)年、甲斐国天目山の戦いで織田信長軍に敗れた武田家は滅亡。信清は菊姫の縁故により上杉家へ巳を寄せた。江戸時代の米沢藩上杉家においても高家衆として処遇され、寛永一九年、八〇歳で亡くなるとこの地に葬られた。菊姫の墓も隣接する上杉家の墓域内にある。」と案内板に記されています。 この寛永十九年というのが気になります。保科正之公が山形最上から会津へ移封されたのは、寛永二十年です。つまり、寛永十九年の山形最上藩主は保科正之公だということになります。また、保科正之公が山形最上藩主だった時代に、領内にキリシタンがいたことは『会津藩家世実紀』の記録から明らかです。 そして、捕縛されたキリシタンが処刑されていると『会津藩家世実紀』に記されているのですが、保科正之公が会津へ移封される時に、一緒に会津に来ていると思われることが、会津のある村の墓地にあった墓誌に彫られています。 『会津藩家世実紀』は会津のキリシタンを研究する上で、不可欠の文書集です。まだお若い藩主、松平容衆に読んでいただくために編纂されていますから、一つ一つの記録をクリティカルに読んでいくと、行間に不思議なことが見えてきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.01.20 16:39:23
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