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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【信濃の六地蔵と甲斐の六地蔵】 上の写真は長野県のとあるところにある清水の近くにあった六地蔵ですが、下の写真は山梨県のとある村のサイノカミをする場所にあった六地蔵です。サイノカミがキリシタンと大いに関わりがあることに気が付かされたのは最近のことです。いつかここでご紹介できる日が来るといいと思っています。 とあるモノを撮った写真に、非常に興味深いモノが写っているのを、帰ってきてから気が付きました。それで、今まで不思議で仕方がなかったコトを理解することが出来ました。そして、そうしたことを考え合わせると、あの村の方々はサイノカミがキリシタンと関わりがあることをご存じであろうと思っています。 信濃や甲斐だけでなく、会津にも数多くの六地蔵が残っています。3体ずつ彫られた石仏が、観音堂の境内に2基並べられているところがあります。その村は『文禄三年蒲生家高目録』(1594)に名前が出てきている村です。しかし、『文禄三年蒲生家高目録』の石高と『会津鑑』(1789)の石高にはかなりの開きがあって、『会津鑑』の石高の方がかなり多いです。『文禄三年蒲生家高目録』と『会津鑑』の間に、品種の改良や耕作手段の進化があったとは考えられません。 「唐箕」や「センバコキ」「備中鍬」が使われるようになったからといって、生産性が向上したわけではありません。可能性があるとすれば、開墾が進んだということしかないと思われます。一反あたりの石高は、現在と比べるとかなり低かったです。一反で一石(150キロ)穫れる田圃はそれほど多くはありませんでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.01.23 20:31:23
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