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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【土津神社】 2003年4月1日、会津のキリシタンの研究に行き詰まっていた時でしたが、土津神社(はにつじんじゃ・地元の方は「土津様」と呼んでいらっしゃいます)をゆっくり巡ってみました。何かを見付けられるかと思ったのですが、土津神社には、小生の行き詰まりを解決してくれるモノは残っていませんでした。 それでも、この日は保科正之公に関する疑問を解きほぐしてくれるかもしれないと思って、土津神墳墓まで土津神社から歩いて上っていきました。参道にはまだ雪が残っていて、静けさに包まれていました。『文禄三年蒲生家高目録』『寛文風土記』『会津鑑』『新編会津風土記』に残されている記録や記事からすると、どう考えても保科正之公に関することが不思議に思えて仕方がありませんでした。 この一帯を歩かれた方はご存じだと思うのですが、元和年間に猪苗代で処刑されたキリシタンの遺骨が埋葬されたところに、この土津神社は近すぎるのです。これは、会津に住みはじめた頃から考えさせられてきたことでもありました。元和年間に処刑されたのですから、保科正之公がお亡くなりになるよりも以前のことです。何故、処刑されたキリシタンの遺骨を埋葬した場所のすぐ近くに土津神社を建てたのか。 この疑問を解決するために、2007年の8月末に伊那高遠を訪ねました。そしてそれ以降、10回ほど伊那高遠を訪ねていますが、解決する糸口を見付けることさえ出来ませんでした。ただ、伊那高遠だけでなく、旧高遠藩領一帯にキリシタンの痕跡が多数残っていることを確認出来ただけです。記録に残っていないことを探し出すフィールドワークは、実に疲れます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.03 21:08:37
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