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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の山間部の村にある白幡八幡神社の「廿三夜供養」塔】 これは前述の白幡八幡神社の鳥居のところにあった「廿三夜供養」と彫られた石塔です。最上部に宝珠形のものが載っていますが、これを理由に仏教のものだとは考えられません。二十三夜の月待ちの習慣は、仏教でも神道でもありません。そして、会津には「二十三夜」と彫られた石碑や石塔が多数残っていますが、こうした月待ちの習慣がどこから伝わったかに関しては、まったく見当が付きません。 ただ、転切支丹類族墓石が残っている一帯に「二十三夜」と彫られている石碑や石塔があることも事実です。そして、キリシタンが月を聖母マリアのシンボルとして用いていたことも、長崎に残っているカクレキリシタンのものからも明らかなことです。そして、旧高遠藩領内にも「二十三夜」と彫られた石碑や石塔は数多く残っていますし、『高遠町誌』に記されていることからすると、伊那高遠には二十三夜の月待ちの習慣が、最近まで残っていたことも間違いなさそうです。 こうしたことを考えると、この村にも保科正之公と共に高遠から山形最上経由で入って来た家々が帰農している可能性が十分にあると考えられますし、この村からそれほど離れていない村にも、転切支丹類族の墓石であろうと思われる墓石が残っています。 ですから、保科正之公が何故、3000人の農民を武士に取り立てて、山形最上経由で会津に連れてきたかが非常に気になるのですが、会津に残っている史料には、その移住に関する記録はまったく見当たりません。しかし、旧高遠藩領内で移住伝承が残っている村々には(おそらくほとんどの村がそうであろうと思われますが)、確実にキリシタンの痕跡が残っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.10 20:29:23
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