|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のとある村の墓地で出会った気になる墓石】 昨日は所用で出掛けて、夕方には帰ってきていたのですが、ネット上にあるデータを集めていたら、クタクタになって9時頃には寝てしまいました。この6枚の写真は、とある村の墓地で出会った墓石の写真です。中段右側の墓石以外は彫られた文字列が切削されています。そして、中段右側の墓石の「居士」の「居」は明らかに異体字です。 こうした墓石は会津では珍しいことではありません。1998年以降、かなりの数のこうした墓石に会津で出会ってきました。そして、こうした墓石を「表面破壊墓石」と小生は呼んでいるのですが、「表面破壊墓石」で最も新しい墓石には、小生が高校生の頃の年号が彫られています。 その墓石に出会って、こうした戒名の部分が切削された理由も見えてきました。基本的には、こうした「表面破壊墓石」は会津藩領内に多いです。天領南山御蔵入ではあまり見かけませんが、それでも山間部の墓地に残っていることもあります。蒲生氏郷の時代に、会津一円にキリシタンが広がったことを考えると、当然のことであろうと思われます。 そして、会津のキリシタンを研究し始めて以降、悲しいことを耳にし続けてきました。会津では、宗門人別制度=寺請制度=檀家制度が施行され始めたのは、保科正之公が会津藩主になられてからだということがまったく議論されていません。それ以前には、その宗旨のお寺も死に関わるイニシエーションには関与していません。つまり、会津の村々がキリシタンになった時には、お寺は死者に法名・戒名を付けることはしていませんし、その時代の人物に戒名が付けられていたら、後になって付けられたものであるということになります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.13 06:39:16
コメント(0) | コメントを書く |