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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠と会津の文化】 会津では、一つの村にある家々の姓がすべて同じという村は数えるほどしかありませんが、信州では珍しいことではありません。それも、村の名前とその姓が同じであるところもあります。伊那高遠でも、村の半分の家々が村と同じ姓で、残りの半分の家々はまた別の姓であるというところもあります。このことは、その村の方が教えて下さいました。 これは、旧高遠藩領内のとある村の入り口付近にあった石碑や石仏、そして双体道祖神と首無し地蔵が並べられているところを撮った写真です。この村と同じ名前の村が会津には2ヶ村あります。その内の一ヶ村のすぐ近くの村には、庚申の年に建てられた「庚申」碑が残っていて、その写真はここでもご紹介したことがあります。 歴史研究では、こうしたことを「偶然」とは考えません。旧高遠藩領内から多数の家々が、山形最上経由で会津に入って来ているのですから、こうしたコトが会津で見られることも不思議ではありません。ただ気になることは、保科正之公は何故、旧高遠藩領内から3000人もの農民を武士に取り立てて、山形最上経由で会津に連れてこられたのかということです。 会津の史料には、伊那高遠からの移住に関することは記されていませんので、可能性のあることを考えていくしかないであろうと思っています。その前提には、保科家は保科郷にいた時からキリシタンであった可能性が高いということ、保科正之公の生母の実家はキリシタンであったということ、そして、旧高遠藩領内の文化が会津にもはっきりと残っているということがあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.13 14:31:57
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