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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津藩領内の表面破壊墓石】 2008年4月29日、以前から気になっていた会津藩領内のとある一帯を訪ねた時に撮った写真です。とある村の墓地ですが、彫られた戒名が切削されている古い墓石が何基もありました。この一帯は会津若松市中心部からかなり離れていますが、この一帯にも表面破壊墓石があることが不思議で仕方がありませんでした。しかし、表面破壊墓石が残っていることは事実ですから、墓石に彫られた戒名を切削することがここまで広がっていたことは間違いありません。 会津では、会津藩領内にも、天領南山御蔵入にもキリシタンが広がっていたことは間違いありません。会津の領主が蒲生氏郷だった時代であろうと思われます。勿論、蒲生氏郷自身が布教したわけではありません。布教したのは、特別な訓練を受けた宣教師です。 そして、上杉景勝が会津の領主だった時代にも、加藤嘉明・明成父子が会津藩主だった時代にも、彼らはキリシタンであり続けていたのであろうと思われます。そして、保科正之公が会津藩主になられてからも、彼らは棄教していなかったように思えますし、この一帯のとある村には「マキ」という同族集団があることも確認出来たのですが、この「マキ」という社会的制度は旧高遠藩領内でも現在も残っています。 また、ここでご紹介したことのある「ジロニモ」と読める異体字が彫られた墓石も、この一帯の村の墓地にあります。「ジロニモ」はヒエロニムスのイタリア語読みだと聞いています。それなりの人物が、幼くして亡くなった男の子に、洗礼名を授けたのであろうと思われます。あの墓石には「延享二丑年」と彫られています。1744年です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.14 12:00:06
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