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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の山間部のとある村の延命地蔵堂】 これはまた別の村の墓地に建てられている延命地蔵堂に祀られていた「子安観音」像とそのお堂の脇に建てられていた「己待供養塔」と彫られた石塔です。「『己待』は『己侍』である」という伝承が会津に残っています。 この村の名前は『文禄三年蒲生家高目録』(1594)にも、漢字表記は異なりますが載っています。つまり、蒲生氏郷が会津の領主だった時代には、既に村が成立していたということになります。ですから、この「己待」は蒲生家の家臣が帰農している可能性があることを否定できません。 何回も書きましたが、会津には葦名家が黒川(現在の会津若松)に館を構えていた時代の武装農耕集団だった村がありますし、『天正十九年蒲生家家臣帳』にはそうした農耕武装集団の長の名前が出ています。そして、そうした村々の墓地には、背の高い宝篋印塔が残っていたりします。 そして、この「子安観音」像とよく似た「子安観音」像があと2体、会津に残っているのですが、その村々をつなぐ山路を、国土地理院の少し古い地形図では確認することが出来ます。そして、この延命地蔵堂がある斜面には村の墓地があるのですが、非常に興味深い墓石が残っていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.15 14:02:58
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