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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【歴史研究の方法】 歴史を研究するということは、過去にどのようなことが起こったのかを見きわめることだと小生は考えています。これは学生時代から痛感していたことで、特に聖書の研究においては非常に重要なことだと知らされました。例えば、かつては、『ヨハネ福音書は、弟子のヨハネが書いた』というのが定説だったのですが、現在はそう考えている新約聖書学者はほとんどいらっしゃらないだろうと思います。 こうしたことは、聖書を様々な視点から分析して得た答えです。小生は、ヨハネ福音書を書いたのは、コイネー・ギリシア語で生活していた人物で、ギリシア哲学にも造詣のあった人物であろうと考えています。それだけではありません。マタイ・マルコ・ルカ福音書が書かれた場所とは異なった地域で書かれ、継承されていたのであろうとも考えています。ことに、「最後の晩餐」の日時が、マタイ・マルコ・ルカ福音書とは大きく異なっています。ヨハネ福音書の著者は、「最後の晩餐」を過越の前にと記しています。 ですから、ローマ・カトリック教会やローマ・カトリック教会から分かれたプロテスタント教会では、マタイ・マルコ・ルカの記述を採用して、「最後の晩餐」を過越の食事だとしているのですが、ギリシア正教会ではヨハネ福音書の日時を採用して、御ミサのパンにはイースト菌の入っているパンを用いています。ですから、日本以外のプロテスタント教会の聖餐式ではパンは、イースト菌が入っていないものを使っています。 この写真は、前述の観音堂を墓地から撮った写真です。この墓地へお寺から来るには、観音堂の横を通って来ることになりますし、村へ帰るのも観音堂のところを通って帰ることになります。これが気になりながら墓地へ行ったら、案の定、五輪塔が2基建てられていました。これを知って、この村が属している市町村史に記されている不思議な出来事を解決することが出来ました。それで、会津キリシタン研究所に戻ってから、国土地理院のサイトにある地形図を拡大して、関連する場所をじっくり見直しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.16 10:10:56
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