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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【関東平野の首無し地蔵】 前述までの墓地にあった首無し地蔵です。一度落とされた首が、モルタルで接着されています。一般にこうした首無し地蔵は、明治初期の「廃仏毀釈」運動によって破壊されたものだとされていますが、これは慶応四年(1868)に「神仏分離令が明治「政府」から出されたたことによって、神社と仏教寺院との間に争いが起き、寺院や仏具や経文などの破壊運動が起こったことを指すために作られたこの「廃仏毀釈」(意味は仏教を廃し、釈尊を毀すことです)という熟語が作られました。 実際に「廃仏毀釈」という名前が広範囲に使われていたかどうかは、判りません。ただ、中学や高校の教科書では、「神仏分離」「廃仏毀釈」という用語が用いられてきたことは事実です。慶応四年以降ですから、明治「維新」になってすぐからということになります。そして、「廃仏毀釈」運動が起こったのは、東京周辺と言われていたことがあったようですが、しかし、首無し地蔵は関東平野のかなり広範囲に分布しています。 そして、会津の場合、首無し地蔵が残っている墓地には、必ずと言っていいほど転切支丹類族墓石が残っています。このことをどのように説明できるかに関して悩んでいた時期がありましたが、「廃仏毀釈」運動が東北や信州あるいは甲斐に残っていることを考えると、キリシタンとも関係しているように思えます。勿論、明治「政府」が転切支丹類族に付けられた戒名などの特徴を知っていたとは思えません。 「日本人は昔から仏教だった」ということを何回も耳にしましたが、日本人が仏教で葬儀をする(戒名を付けていただき、葬式で読経していただく)ようになったのは、どんなに早くても、寺請証文を持っていることが義務づけられた寛永十五年(1638)以降のことです。この時には既に、保科正之公が会津藩主になっていらっしゃいました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.21 09:49:08
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