|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【武蔵国秩父の曹洞宗金昌寺】 上の石碑には「龜甲地蔵尊堂宇再建碑」と彫られていますが、右側に「明治三十六年九月?日」と彫られていて、左側には「東京市日本橋」と彫られています。下の石碑には「爲先祖代々一切精霊」と彫られていて、右側には「江戸赤坂里?谷」と彫られています。この下の石碑は「江戸」と彫られていますから、江戸時代に建てられた先祖墓石であろうと思われます。そして、左側には武家らしき姓名が彫られた下に「母」と彫られていますから、武士の母親が建てたものであることが判ります。 宗門人別制度下では、自分の家の檀那寺以外のお寺と関係を持つことは禁止されていました。また、享保十四年(1729)には、檀那寺から離れることも禁止されました。おそらく、檀那寺を離れる家が増えたのであろうと思われます。現在の信教の自由から考えると、実におかしな規制なのですが、小生が知る限りでは、檀那寺を離れる家が増えたことによって、末端の寺々の檀家が減ったことに関して、本山が幕府に苦情を言上したのであろうと考えられているようです。 宗門人別制度が仏教を国教化したことでないことは、既に何回も記してきました。そして、檀家からキリシタンが発覚した時、そのお寺のご住職の最高刑は梟首でした。そして、宗門人別帳は御本尊よりも大切なもので、火事になった時には、宗門人別帳をまず持ち出していたとされています。 「東京市日本橋」の住人が何故、金昌寺にある「龜甲地蔵尊堂宇」を再建したのでしょうか。また「江戸赤坂里?谷」の住人が何故、秩父にあるお寺に先祖のための供養碑を建てたのでしょうか。そして、幕府はこうしたことが行われていることに何故、気が付かなかったのでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.21 11:52:20
コメント(0) | コメントを書く |