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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【都心のお寺にあった織部灯籠】 これは以前にもここでご紹介したことのある織部灯籠です。火袋の部分は別の石灯籠のものかもしれません。ご住職にお伺いしたら、どこからかここに運ばれたもので、いつ頃のことかは判らないとのことでした。それにしても、こうしたものが都心に残っているとは思っていなかったので、非常に驚きました。そして、境内にある墓石をじっくり見てきたのですが、転切支丹類族墓石がいくつもありました。 ここは江戸時代中期までは農村地帯です。武家屋敷が広がったのは江戸時代中期以降のことです。そしてその武家屋敷の多くは将軍家の家臣団でした。そして、下の写真に写っている墓石には「帰元」と上部に彫られています。この近くの屋敷に転切支丹類族がいたのであろうと考えられます。都心と言っても、山手線の内側ですが、このお寺からそう離れていないところにあるお寺にも、転切支丹類族墓石が残っていました。 勿論、現在は東京都23区内ですが、小生がまだ小さかった頃、阿佐ヶ谷の実家でニワトリがイタチに食べられたことがありました。近所には養鶏農家や野菜を栽培している家がありました。現在はその跡形もありませんが、中央線の中野から西側に家が建ち始めたのは関東大震災の後ですし、現在の環状7号線から少し西側までは、東京大空襲で焼けました。「少し西側」からもっと西側は、まだ家がそれ程建てられていなかったので、延焼を免れたと高円寺のお店の方にお伺いしたことがあります。 ですから、練馬・杉並・世田谷から西側は、小生が小さかった頃は畑が沢山ありました。三鷹駅を過ぎると左側に国鉄の車庫があったのですが、右側には畑が広がっていました。正に、武蔵野台地の田園地帯でしたが、この武蔵野台地の田園地帯にあるお寺にも転切支丹類族墓石が残っていることを確認しています。保科正之公の生母・お静の方の実家があった竹村は、現在の東京メトロ有楽町線の小竹向原辺りであるとされています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.21 17:24:44
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