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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【都心のお寺にあった不思議な墓石石仏】 これは前述までのお寺とそれほど離れていないお寺の境内の草むらの中にあった墓石石仏です。上の墓石に彫られている戒名は「一」で始まっています。下の墓石に彫られている文字に不思議なものはありませんが、舟形光背の左側に「寛文十」と彫られています。会津藩主保科肥後守正之公がまだご健在の時です。保科正之公がお亡くなりになられたのは、寛文十二年十二月十八日、西暦1673年2月4日です。寛文九年には、会津藩では家老がキリシタンであるが故に帰農しています。このことに関しては『新編会津風土記』に載っていますが、帰農の理由に関しては『新編会津風土記』は沈黙しています。 小生は上の写真の墓石石仏だけでなく、下の墓石石仏も気になって仕方がありません。それは、このお寺も曹洞宗のお寺だからです。寛文十年には既に、こうしたことが曹洞宗のお寺でも行われていたことになります。こうしたコトに出会ってきたので、宗門人別制度はキリシタンの取り締まりのために作られた制度ではなく、仏教の解体と再編が目的であったのではないかと考えざるを得ないのです。 幕府から宗門人別制度の施行命令が出されたのは、17世紀前半です。そして、寛文十年(1670)にはこうした観音菩薩が彫られた墓石石仏が曹洞宗のお寺に建てられています。その一方で、江戸城からそれほど離れていないところに、織部灯籠が残っています。同じようなことは、会津でも考えさせられ続けてきました。 会津のキリシタンを研究し始めた頃、国土地理院の地形図にある<卍>の印に、宗旨によって異なる色を付けました。会津盆地の北部がその典型なのですが、隣同士の村々に同じ宗旨のお寺があるところはほとんどありません。宗門人別制度では、檀那寺を一般民衆が選ぶことは出来ませんでした。すべて、藩や幕府が決めました。そして、仏教寺院が布教して檀家を増やすことは、厳しく取り締まられていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.22 11:02:45
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