|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【江戸の「切支丹屋敷」】 現在の文京区小日向に、幕府の初代大目付兼宗門改役であった井上筑後守政重の下屋敷があり、その屋敷が「切支丹屋敷」と呼ばれていました。現在はその一画は住宅地になっていますが、この案内柱が建てられています。この「切支丹屋敷」はまだ転んでいない切支丹が集められて、拷問を受けて転ばされたり、拷問の故に数多くの「切支丹」が死んだとされています。 しかし、小生にはどうしても納得がいかないので、この「切支丹屋敷」跡を訪ねてみたことがあります。納得がいかないのは、あの井上筑後守政重に関することが『会津藩家世実紀』に編纂者の註があって、かつては蒲生家の家臣であると保科正之公に書状が届いたことが記されています。そして、会津藩で宗門改役を決めるのに、ある人物を推挙しているのですが、その人物も蒲生氏郷の家臣だったから仕事がし易いという理由でした。 そして、保科正之公が会津藩主になられた時に、加藤明成の時代に捕らえられたキリシタンが牢にいたのですが、井上政重から江戸送りにするようにとの連絡があり、江戸お送りにしました。その時の記録が『会津藩家世実紀』二の凝っているのですが、江戸に向かう途中で何人かが逃亡していると記されているにもかかわらず、逃亡したキリシタンを追跡していないのです。 『会津藩家世実紀』にあるその部分を読んで、何かがおかしいと思いはじめたのですが、そもそも、井上政重の素性がはっきりしないのです。一般的には幕閣の井上家の四男とされているのですが、だとしたら何故、彼は自分は蒲生家の家臣だったと保科正之公に連絡してきたのか。そして、もっと奇妙なのは、かなりの人数が江戸お送りになっているのですが、ほとんどのキリシタンが会津へ帰ってきています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.22 14:07:34
コメント(0) | コメントを書く |