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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の山村】 上の写真に写っている切り通しのような部分を抜けると、下の写真に写っている谷が広くなっているところに出るのですが、ここからもう少し奥に江戸時代には間違いなく村があったところに出ます。その村のことは『新編会津風土記』に記されているのですが、現在は全戸が離村しているので、建物はもう残っていないだろうと思います。 この村へ外からは行って来るためには、写真に写っている林道だけが頼りです。そして、この村に残っていた伝説について書かれている本を見付け、出小屋が写っている写真が載っていたので、非常に大きな関心を持っています。出小屋があったということは、近年まで無積雪期には農耕のためにこの谷に入って来て、農耕を営んでいたのであろうと思われますが、離村後にどこに住んでいるのかは調べようがありません。 当該市町村には本籍が残っているかもしれませんから、記録がないわけではないだろうと思っているのですが、プライバシーに深く関わることなので調べることはしないことにしました。しかし、その本に記されていることを考えると、この村にあった家々は、おそらく伊那谷から山形最上経由で会津に入って来た家々であろうと思われます。そして、村人達は他の村々とは関わりを持たなかったことも、この村に伝わっていた伝説から判ります。 この本は歴史に関する本ではありませんが、こうしたことを知ることが出来た非常に価値のある本でした。また、『新編会津風土記』にある記述からすると、享保年間までは銅山で採掘が行われていたようですが、その後、銅の産出量はかなり激減したようです。また国土地理院の地形図からすると、耕作面積はそれほど狭くなかったようですが、『会津鑑』には石高は記されていません。そして、この村の本村の石高は『会津鑑』に載っているのですが、この本村の石高を小名や端村の家数を加えた数で割ると、一軒当たり1石4斗弱になります。畑作を主にしていたようですが、それ以外に藩から委託された特別な仕事をしていた可能性があると考えられるのですが、それに関する記録はまったくありません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.26 17:38:54
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