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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【南会津の山間の村】 この写真は金山町にあるこぶし館に掲げられている写真を撮ったもので、金山町教育委員会から使用許可を頂戴しています。三条という村ですが、右奥の二階建ての建物は分校です。但し、現在はこの分校も含めて、すべての建物が解体されてしまっています。山菜取りには行ってくる方々が、無許可で民家に宿泊すると危険なので、すべて撤去したと聞いています。 「川上からお椀が流れてきたので、村があることが判った」とか、訪ねた人が「源氏か平氏か」と聞かれたとかいう言い伝えがありますが、この村の名前は『文禄三年蒲生家高目録』には別の漢字で記されている村がそれであろうと考えられます。そして、村には武士の子孫ではなく、貴族系の家であるという伝承が残っていることが、とある本に書かれていました。 会津には面白い言い伝えがあって、「昭和村は昭和になって発見された村」というのがありますが、昭和村の多くの村々は『寛文風土記』(1666)に出ています。ただ、『寛文風土記』に載っていない村があるのですが、それらの村々は、『寛文風土記』以降に成立した村かもしれないと思っています。関心のある方は是非、『文禄三年蒲生家高目録』(1594)『寛文風土記』(1666)『会津鑑』(1789)『新編会津風土記』(1804)を一つのデータベースにしてみて下さい。 小生は、この村は蒲生氏郷の時代に、特別な任務を帯びていた村ではないかと考えています。蒲生氏郷が南部攻略の時に、弾薬が足りなくなりそうだったので、会津から持ってくるように指令したといわれていますが、戊辰戦争の時に弾薬、特に煙硝が足りなくなった時に、わざわざ飛騨から取り寄せています。この煙硝は現在の黒色火薬ですが、木炭を粉末にして硫黄を粉末にしたものと混ぜて、あることをしておくと硝酸塩が出来ることは、少なくとも室町時代末期には判っていました。つまり、硝酸塩がなくても黒色火薬を作ることが出来るということです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.27 14:34:38
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