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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【伊那高遠】 『会津藩家世実紀』に残っている文書の中で気になるものがあったので、高遠へ行けば何かが見えてくるかもしれないと思い、2007年8月28日に伊那高遠へ出掛けました。この写真は、その時に撮った写真ですが、「生島・絵島事件」で寛延二年(1749)に高遠へ遠流になった絵島が幽閉されていた建物を復元したものを撮った写真です。 小生は「生島・絵島事件」を知らなかったので、あまり関心がなかったのですが、何かの役に立つかと思って写真を何枚か撮ってきました。その中には、案内板を撮った写真があったので、それをここでご紹介したことがあります。ただ、その時には、絵島の秘密を見抜けていませんでしたが、それからしばらくして、『高遠のあゆみ』という写真集を見直していたら、絵島の墓石の写真がありました。あの墓石はかなり風化かしていて、小生が絵島の墓地を訪ねた時には、文字を読み取ることが出来ませんでした。 「信敬院妙立日如大姉」と彫られた下に、「霊」の速記文字が彫られています。小生は、絵島が何故高遠に遠流になったのかが非常に気になっていたのですが、これで高遠藩が絵島の処遇に関して非常にきにして、細かいことまで幕府にお伺いを立てていた理由が判りました。そもそも、戒名というのは「仏(ほとけ)」になった人に付けるものです。「仏」は「霊」ではありません。 「生島・絵島事件」は映画になって有名になったそうですが、小生はまだ小学生だった頃のことのようでまったく知らなかったのですが、墓石の写真を見てからは、色々なことを考えさせられました。そして、伊那谷だけでなく、諏訪や山梨県の北西部を訪ねて、気になっていたところを訪ねて、気になっていたことが解決しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.01 16:48:09
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