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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【旧高遠藩領内のとある村のお寺の墓地にあった転切支丹類族墓石】 これは、旧高遠藩領内のとある村にあるお寺の墓地にあった転切支丹類族の墓石を撮った写真です。このおてらも曹洞宗のお寺ですが、既に廃寺になってしまったようで、お寺の建物はありませんでした。それでも、墓地だけは確認したくて、それほど広くない墓地を歩いてみたのですが、気になる墓石がいくつもありましたし、左上の写真の背景に写っているように、十字墓も残っていました。 ここを訪ねたのは2010年9月30日でしたが、これ以降、高遠のキリシタン史がかなりはっきり見えてきました。それだけではありません。保科家がキリシタンになったのは、伊那高遠にいた時ではなく、善光寺平の保科郷にいたときであることも、まず間違いないだろうと思えて、保科郷に残っていた宝篋印塔に関しても、意味が見えてきました。 保科正之公が高遠藩主の保科家に養子に入ったのは、元和三年(1617)のことです。この時、生母であるお静の方も高遠へ移住していますが、お静の方の実家の武士も保科家に仕えています。これは、『会津藩家世実紀』に残されている記録からはっきりしています。そして非常に重要なことは、この時代にはまだ、宗門人別制度は施行されていないということです。宗門人別制度の施行はどんなに古くても、寛永十五年(1638)のことです。 保科正之公が保科家に養子に入られた時には、仏教寺院は一般民衆の死に関わるイニシエーションに関与していません。つまり、死者に戒名・法名を付けることはしていませんし、葬式で読経することもしていません。また、お静の方に関して、「徳川秀忠の側室」と書かれているサイトがありますが、保科正之公の父親は徳川秀忠ですが、生母のお静の方は側室にはなっていません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.04 15:07:55
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