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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のとある木地師の村跡】 前述の「抜苦譽楽場」と彫られた石造物が残っている墓地にあった墓石の一つです。「明和五子天七月十七日と側面に彫られていますが、反対側の側面には「○○仁右衛門妻」と彫られています。姓は暈かしています。この暈かしは不可逆性のものですから、元に戻すことは不可能です。 会津では、いくつかの姓は被差別民だと言われているので、姓に関してはここでは公開してきていません。それなりの根拠があって、そうしたことが言われたのであろうと思われますが、そうしたことが起こったのは近年になってからのことです。 この墓石から考えると、明和五年(1768)にはこの木地師の村の家々にも姓が伝わっていたのであろうと思われます。会津では、こうしたケースはかなり多いです。墓石を建立した人物の姓が彫られている墓石をここでご紹介したことがありました。あの墓地には、実に不思議なことですが、農村にあるお寺の墓地に、かなりの数の五輪塔や屋根がある大きな墓石が残っています。 おそらく、帰農した武家集団であったのであろうと思われます。そもそも、室町時代中期以降には、武装した農耕集団が数多くいました。徳川家も、先祖は三河の松平にいた武装農耕集団でした。そして、そうした武装農耕集団が、所謂「戦国時代」以降に敗軍の将兵を集めて、大きな集団になったと言われています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.06 14:10:40
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