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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【秩父の曹洞宗金昌寺にある不思議な首無し石仏】 「秩父三十四観音」の札所の一つに金昌寺という曹洞宗のお寺がありますが、その本堂は観音堂です。そして、入口に上の写真に写っている「子安観音」石像が祀られています。勿論、この石像がこの観音堂の御本尊ではありません。境内に建てられている案内板では「慈母観音」と説明されています。「子安観音」であれ、「慈母観音」であれ、この石像は仏教の菩薩ではありません。菩薩は地蔵菩薩もそうですが、男でも女でもありません。菩薩は性を超克した存在です。ですから、子供を産むことも、授乳させることもありません。そして、曹洞宗のお寺の本堂が観音堂で、御本尊が「十一面観音」であるということも、本来は有り得ないことです。 そして、金昌寺には多数の石仏や石像が奉納されているのですが、真ん中の写真に写っている石像は首が落とされています。そして、これも不思議なことなのですが、両手で五輪塔を捧持しています。日本で最初に墓石を建てたのはキリシタンであるということは、宗門人別制度の施行年代を考えると間違いないと思われます。 キリシタンの墓石として宝篋印塔が建てられたり、五輪塔が建てられたりしました。会津には、火輪に宝篋印塔の笠の部分の名残がある五輪塔が多数あります。また、非常に重要なことですが、蒲生氏郷が会津の領主だった時には、宗門人別制度=寺請制度=檀家制度は影も形もありません。会津で宗門人別制度が施行されたのは、保科正之公が会津藩主になられてからのことです。加藤明成が会津藩主だった時代に宗門人別制度が施行されたという記録も痕跡もありません。 その中で、五輪塔が墓石として建てられているケースはかなりありますが、そうした習慣は、江戸時代後期まで続いていたようです。特に、若松城下にあるお寺の墓地を歩いてみると、様々な五輪塔に出会うことが出来ます。そして、出版されている『類族帳』では、若松城下にも転切支丹類族がいたことがはっきり判ります。それにしても、保科正之公の命で行われた寺社改めの時に、『新編会津風土記』に記されているお寺が、実際にどれくらいあったのか。『新編会津風土記』に記されているお寺の開基年代は、寛文四年(1664)に行われた寺社改めの時に、寺社から提出されたものがそのまま記されています。会津藩領でも天領南山御蔵入でも、村の中にお寺が建てられているケースがほとんどです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.09 15:34:09
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