【海野宿】
現東御市にある海野(うんの)宿を撮った写真です。
「海野氏の事跡
海野氏の出自については諸説あるが、ここ東部町を中心とした往古の海野郷を根拠とした豪族であり、新張・望月などの牧の管理者であった禰津・望月両氏と共に東信濃にその基盤を築いた。
平安中期、海野・禰津・望月の三氏は國司・牧官等として下った滋野氏と関係を結び、やがてこれを祖と称するようになり、滋野三氏と称され、海野氏は本宗として、その中心的存在であった。
平安末期、中央での政変「保元の乱」には、源頼朝の下で活躍し、治承五年木曾義仲の白鳥河原挙兵に際してはその中心的となって奮闘した。また天下の実権が鎌倉にうつると、源頼朝や北条氏に仕え重用された。中央にも聞こえた弓馬の名家であったため、主家が亡びても代った権力者にその力を評価されて、平安末期、鎌倉期の波乱の時代を乗り切り安泰を保った。
中世 元弘の乱以後の争乱の中では、一族と共に北条氏の再興をはかったり、他の国人と共に主語に反抗したり、その基盤を守るために懸命の活躍をしたが、足利幕府が確立する中でその努力は報われず、苦難の道を歩むことになった。
戦国時代、信濃国内でも守護小笠原氏の勢力が弱体化し、諸豪族間の争いが激しくなってきた。
天文十年 信濃攻略を企図した甲斐の武田氏は、村上・諏訪両氏と連合して海野氏を攻撃した。「海野平の合戦」と称されるこの合戦は、海野氏の死命を制することとなった。一族の禰津・矢沢氏は降伏、当主棟綱は上野に敗走、嫡子幸綱は戦死し、信州屈指の名族海野氏の正系はここに滅亡した。なお、一族の真田幸隆も上野に敗走したが、後武田氏に使えその翼下として信濃攻略に活躍し、名門真田氏の基礎を築いた。
平成十四年十一月三日
海野史研究会建立」
海野宿に建てられていた石碑に彫られていた全文です。保科正直が高遠城を奪還したのは天正十年でした。この年に村上・武田連合軍が信濃を攻略しているのですが、この村上氏や武田氏の家臣団にもキリシタンがいたことは、残されているモノから明らかです。
そして、佐久平から上田平までの間にも、はっきりとしたキリシタンの痕跡が残っています。特に、真田昌幸の家臣だった真田姓の家が帰農している村にも、キリシタンの痕跡が残っています。これらは、これまでにここでご紹介したことがあります。