|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【福島県中通り地方の「天」年号石仏】 前日の「子安観音」石仏と同じように、観音堂の境内にあった石仏です。舟形光背の右側に「寛延二己巳天」と彫られています。しかし、戒名が彫られていませんから、墓石として建立されたものではなさそうです。この時は、中通りのある一帯を巡ったのですが、行く先々で不思議なモノに出会いました。 福島県の白河市から宮城県白石市までは、蒲生氏郷が会津の領主だった時には、蒲生領でした。16世紀末です。そして、白河から白石までは蒲生家の重臣たちが領主になっていました。これは、『天正十九年蒲生家家臣帳』で明らかになっています。そして、その多くはキリシタンであったと考えられますが、一人だけキリシタンではなかった武将がいました。これは、『新編会津風土記』に記されている記録から考えられます。 ですから、蒲生氏郷が会津の領主だった時代に、会津全域だけでなく中通り地方にもキリシタンが広まっていたと考えられますし、現在の白河市から白石市までにもキリシタンの痕跡が残っています。それだけではありません。中通りのある村の方が奉納したモノが、会津のとある観音堂に奉納されているのを見付けて、井上筑後守政重が蒲生秀行の時に筆頭仕置奉行だった岡重政である可能性が十分に高いと考えられるようになりました。 井上筑後守政重は保科正之公に自分はかつて蒲生家の家臣だったと知らせてきたと、『会津藩家世実紀』の編纂者の註に記されています。そして、現在の福島市中心部に近いところからメダイが発掘されたことが記されている文書のコピーをある方から見せていただいたことがありました。現在福島県庁がある辺りは、蒲生時代には杉ノ目と言われていましたが、蒲生秀行が宇都宮へ移封された後、杉ノ目の城主になったのは、上杉景勝に仕えた岡越後守四郎右衛門左内です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.15 10:29:33
コメント(0) | コメントを書く |