|
テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津の不思議なお寺】 上の2枚は、前述の道路脇に建てられていた石塔です。「鬼子母神」「南無阿弥陀仏」と彫られています。しかし、ここは曹洞宗のお寺です。鬼子母神を祀ることや「南無阿弥陀仏」と唱えることは考えられません。曹洞宗の中心的教理は、「只管打坐」といって、ただひたすら禅を組むことです。そしてお寺の裏山にある墓地には、「亥天」の文字だけが残っている被破壊墓石がありましたし、お寺の境内には首無し地蔵がありました。 保科正之公に旧高遠藩領内の3000人の農民が武士に取り立てられて、山形最上へ移住し、保科正之公が会津に移封されると、1軒を除いて移住したすべての家が会津に再移住しているということは、旧高遠藩領内では知らない方はいらっしゃらないだろうと思えるほど、どなたでもご存じでした。 そして、藩の財政が厳しくなった時に、家臣の数を減らすことを提案した家臣に対して、会津には既に開墾出来る土地が少ないから、帰農した家臣達は食べるのが大変になるからそれは出来ないと、保科正之公ご自身がおっしゃったという記録が『会津藩家世実紀』に残っています。 会津の中で、保科正之公以降に成立したと考えられる村々を抽出して、その村にある姓を考えると、保科正之公が何故、3000人の農民を武士に取り立てて山形最上に移住させたのかが見えてきます。そして、小生がこれまでに出会った方々とお話ししてきた限りでは、旧高遠藩領内から山形最上経由で会津に移住された家々は、そのことをご存じであろうと思っていますし、伝承が確実に残っていると思えるケースもあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.19 20:51:33
コメント(0) | コメントを書く |