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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【「会津」の範囲】 小生が「会津」と呼んでいるのは、現在の耶麻郡全域・河沼郡の全域・大沼郡の一部を除く全域・南会津郡全域と喜多方市全域・会津若松市全域だけでなく、江戸時代には会津藩領だった新潟県東蒲原郡阿賀町全域や、天領南山御蔵入だった栃木県日光市の一部・そして現在は郡山市湖南町になっている一帯や新潟県小千谷市になっている一帯を示しています。 この6枚の写真は、現在は福島県になっていない一帯の、とある沢を訪ねた時に撮った写真です。この一帯は、戊辰戦争までは、間違いなく会津だったところです。それも、蒲生氏郷が会津の領主だった時から、この一帯は蒲生領になっています。(『文禄三年蒲生家高目録』) 左上の写真は馬頭観音石仏です。右上の写真は子供の墓石として建てられた石仏ですが、地蔵菩薩でも観音菩薩でもなさそうです。そして、この沢沿いに続いている道沿いにあった墓地には、宝篋印塔が何基も建てられていました。この一帯には、他にも宝篋印塔が残っているところがあります。そして、右下の写真は、この沢の一番奥の村にあった薬師堂の境内に祀られている地蔵菩薩石像を撮った写真です。この地蔵菩薩石像は首が落とされていません。 以前から気になっていた一帯だったのですが、一昨年の6月に会津から上京する時に立ち寄りました。かなり以前に一度、いくつかの村を訪ねたのですが、その時にも気になるものがいくつも残っていました。そして、この沢沿いの村々は、『文禄三年蒲生家高目録』(1594)に名前が出てきています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.21 09:29:50
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